質的調査と量的調査の対立(?)問題 岸・筒井対談より

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千田有紀さんのキズナアイ批判が延焼して、社会学の学問的妥当性にまで火が及んでいる流れで上記の記事がちょびっと再注目を集めている。この記事を数年前はじめて読んだときの「違う、そうじゃない」感をなんとなく言語化できたような気がするので記す。

問題個所は当該記事2ページ目の「「比較しろ」というけれど」という小見出し以降である。ちょっと引用してみたい。

 あと、量的の人って、やたらと「比較しろ」って言いますよね。ぼくの連れ合いの齋藤直子は被差別部落の研究をしているんですが、学会で発表した時に「在日と比較しろ」といわれたそうなんです。

 

筒井 ああ、確かに「比較しろ」と言いたい気持ちは分かりますね。

 

 そんな、部落と在日とを比較しろなんて、それ自体が「マイノリティといえば」っていう安易なステレオタイプですし、簡単に比較できるわけがない。全然違うものを恣意的に並べているだけになっているんです。

 

筒井 その問いには意味がないということですね。ですが、不自然な問いではないと思いますよ。ものすごく簡単な理屈なんですが、Aとはそもそも何か、という時に、Bと比較することで、Aと違っていることが分かるのは、日常的な感覚だと思うんです。

 

 全然そんなことないですよ。たとえば、焼き肉が食べたいときに、バナナと比較しませんよね。

 

筒井 そんなことぼくもしませんよ(笑)。

 

 それぐらい、違うものを比較しているような気がするんですよ。

 

筒井 たとえば、差別A、差別Bがあった時に、なぜそれが焼肉とバナナくらい違うのか、ということについては、その説明責任はそちらにあると思いますよ。

 

 安易すぎるという感覚があるんです。部落の話題を出しているのに、在日を比較しろっていうなんて、それ自体が暴力とすらいえる。そんなことも分からないなんて、説明するのも徒労に思えてしまいます。

 

筒井 でも、そういった問いが実際に多いんだとしたら、ぜひこっちにも分かるように説明して欲しいわけです。レベルの高い質的研究に対して安易に「比較したらどうか」といった質問をぶつけるのはムダであるというのはわかるとしても、もしかしたら質的研究をはじめたばかりの人にとってみたら、比較したらどうなるのか、というのは意味のある質問かもしれませんよね。

 

ぼくの指導している院生が、中国からの結婚移民の研究をしているんです。まずは、歴史記述からやると、ある程度量がたまってきたら、中国からの結婚移民がどういう理由で移民してくるのかインタビューをしていく。昔は金銭的な問題だったけど、今は日本人の文化的なものに惹かれているんじゃないか、というふうに持っていきたいようです。

 

そこで、ぼくは、「中国からの結婚移民を調べたら、東南アジアからの結婚移民を調べて、比べたらどうか」というアドバイスをします。これって、よくあることだと思うのですが。

 

 いやぁ、どうでしょう。中国からの花嫁と、東南アジアの花嫁を比べる準拠点がないじゃないですか。

 

筒井 海外からの花嫁というのを根拠にしています。

 

 うーん、なんでわからないんやろ。

 

論点としては岸政彦さんのお連れ合いさんが学会で「被差別部落」の話したら「在日」と比較したらどうかという批判をたまわったというのに対し、筒井淳也さんが「在日」と「被差別部落」比較したっていいじゃないですかと返し、岸さんはその両者は「比較できない」と反論しているというものである。ここに質的調査派と量的調査派の対立点が見て取れる(ということになっている)。

 

以前ブクマでも書いた通り筒井さんの反論はなかばプロレスだと思っているのでここに岸さんがきちっと反論をカマせていないのはよろしくないなと思っていたのだが、自分も面倒くさがってあまり深く考えてこなかった。今回はここで岸さんがどのように反論していたら自分は満足だったかという観点から議論してみたい。

さて「在日」「被差別部落」を比較することを岸政彦は「焼肉とバナナ」を比較するような全然違うもの同士の比較と例えている。これに対して筒井淳也も比較する「意味がない」ものとある程度の理解を示しつつも、「差別Aと差別Bがあった時に、なぜそれが焼肉とバナナくらい違うのか、ということについては、その説明責任はそちらにある」としている。また他の例として結婚移民についても筒井淳也は中国花嫁と東南アジア花嫁の比較を推奨するのにたいし、岸政彦は「比べる準拠点がない」と批判している。

 

分かりやすくするために前者の例に限定しつつ議論すると、これは「差別」という語であらわされているものが一致していないといってよい。岸は「在日」「被差別部落」の比較を「焼肉とバナナ」にずらしている。ここで岸は同じ食べられるものだけど、通常は同じ土俵に載せないものを例示しており、「焼肉とレンガ」のような全く食べられないものの比較にしていないことから両者の対比がまったくイレレバントだとは実は主張していない。筒井も基本的にこの路線を共有しているので「差別AとBの違いの説明責任をはたしてくれ」と返している。つまり両者の間ではここは議論として妥当な対象化がされているという合意があるわけだ。

 

では岸政彦はどのように説明責任を果たしえるはずだったか。初めて読んだとき「岸さんは説明責任を果たしていないな」と感じた。いまならどのように援護射撃できるだろう。

 

最初の「焼肉とバナナ」あたりがおそらくポイントなのだが、つまりこれは岸としては「カテゴリーミステイクだ」と反論しているのだ。カテゴリーミステイクとは初めて大学のキャンパスを案内された人が、講義棟、実験棟、図書館、事務棟などなどと順繰りに案内された後「で大学はどこにあるんです?」と言ってしまうような間違いだ。この例では制度としての大学と、物理的建造物としての大学が取り違えられているためこのような間違いが起きている。本稿の議論対象でいえば「在日」「被差別部落」がそれぞれの「建造物」にあたる。これらを比較しようと思ったら上位概念の下で包摂されている必要がある。ここで上位概念にあたるのが先に述べた「差別」にあたる。「在日」「被差別部落」は「差別A」「差別B」として比較可能だというのが筒井淳也の主張である。ここでの「差別」はそれぞれの差異が概念内で吸収可能なほど小さい静態的な現象として想定されているように思われる。

岸からすればそもそもこの「差別」をめぐる想定が受け入れ不可能なのだろう。「差別」は(特に集団間で)一方から他方へ方法内容共に不当な評価を行う事で不利益を被らせる動態的な側面を持ち、そのさいのロジックは各差別現象ごとに異なるので、個別性にこだわった議論をするの「が」重要だとなってくる。ここが筒井からすれば「同じ」で岸からすれば「同じではない」となるポイントだろう。カテゴリーミステイクの例に戻せば両者がみている「大学」は全然違うものという事になる。この「大学」の違いまで含めて議論の俎上に載せながら(再帰的に)論を組み立てられるのが質的調査の研究上の強みだろうか。量的調査は一度仮説設定しちゃうと白黒つけるしかないので。

 

実のところこれに似たような議論は岸さん自身が数年前の『現代思想』で書いてたので岸さんが最初からこれくらい言ってくれてれば満足だったのだが。

 後で読む

説明と物語──社会調査は何をめざすべきか 盛山和夫

https://core.ac.uk/download/pdf/143633197.pdf