グレーバー「どうでもいい仕事(bullshit job)」

今月号の『現代思想』(特集=公文書とリアル)にデイヴィッド・グレーバーのインタビューが載っていて、その一節が面白かったのでちょっと長いが引用したい。

曰く、世の中には実質的には無くてもよい、どうでもいい仕事(bullshit job)というものがあって、これはグローバルな現象なのだと。そしてこのどうでもいい仕事は従事している人も周りも存在意義を認めておらず、仕事におけるモラリティの問題に深く関わっているのだと。ここ最近の彼の仕事のなかではもっとも大当たりしたエッセイなんだとか。

この話を読んで、昨今のAI脅威論(技術)と日本的追い出し部屋問題(モラル)との接合をぼんやりと考え中。

デイヴィッド・グレーバー:
 2013年に「どうでもいい仕事(bullshit job)現象について」というタイトルのエッセイを書きました。そのエッセイは、わたしの書いてきたもののなかで、もっとも大当たりすることになりました。それは、きわめてありふれた経験にもとづいています。カクテルパーティには全然行かないのですが、行った場合、じぶんの仕事について話すのを好まない人間に、少なくとも一人は遭遇します。そこでわたしが、人類学者であることやマダガスカルでのフィールドワークについて説明すると、かれらは一様にとても興味をもってくれます。けれども仕事について互いに話しはじめると、かれらはすばやく話題を変えてしまうのです。そして、いくらか飲んだあとで、ついにかれらはこう打ち明けてくれるのです。「上司には内緒なのですが、なんにもやってないようなものなんです」とね。かれらは中間管理職であり、会議で図表やらグラフやらをプレゼンする存在にあたります、しかし実際のところ、このような会議に出席することを望むものはだれもいないし、出席したとしても本当のところはなにも変わらないのです。そこでわたしは、こうした仕事のたぐいを「どうでもいい仕事(bullshit job)」と呼ぶことにしました。
 だれもこのことを社会問題だとみなしていないのは非常に興味深いことです。ひとつには自由市場のイデオロギーによれば、こんなことは存在しないことになっているからです。この種のどうでもいい仕事(bullshit job)は、豚肉一切れを売るために五人の人間を雇っているようなソヴィエト連邦のなかで存在しえただろう。しかし西側の資本主義では、とりわけ利益の取得を旨とする大企業ではそんなことは存在しえない。効率性は資本主義の最大の利点の一つだから。ならば、どうしてこんなことが起こりえたのでしょうか?
 わたしがまた知りたかったのは、世の中に自分の仕事がどうでもいい仕事だと感じている人がどれくらいいるのかということでした。驚かされたのは、エッセイが公表されてから二週間後には13の言語に翻訳されており、一日に何百万というアクセスを稼いだために、ウェブサイトがひっきりなしにダウンしてしまったことです。これが気づかせてくれました。なんてこった、こいつは考えていたよりもずっと共通のものじゃないか!とね。最終的にイギリスの有力な世論調査会社のひとつであるユーガブ(YouGov)が、わたしの言葉を直接引用して調査を行ったのですが、労働力の37パーセントが社会に対して意味のある貢献をしているとは考えていないことが示されました。50パーセントはじぶんの仕事が有用だと考えていて、13パーセントがわからない(と回答しました)。無用だと考えることが不可能であるような仕事がどれくらいあるのかを考えてみると、とても重要なことに気づきます。かりに看護師やバスの運転手だったとしたら、社会に貢献していることはあきらかです。その一日は無意味なつまらないことで満たされているかもしれません、けれども一日が終わるころには意味のある仕事をしたことはわかっているでしょう。わたしにとってこの調査が基本的に示しているのは、そんな仕事は無用だとおもっているんじゃないかと疑われている人々が、実際にじぶんたちの仕事を無用だと考えているということです。
 どうやったら市場経済でこんなことが可能なのでしょうか?わたしたちが現実には市場経済のなかにはいないというのが、ひとつの答えでしょう。ほとんどの企業はきわめて大規模で、現実には寡占の状態にあります。それらは政府と関係をもち、競争を排除するためには現実の規制を好んでいます。それに対して、小規模な会社は、そのための役員(官僚)を雇う余裕などありません。ですが、それだけではありません。わたしがおもうに、わたしたちがここで直面しているのは、私たちが仕事のモラリティをどのように理解しているのかという根源的な問いなのです。深く文化的なレベルでは、多少なりとも不満をおぼえるようなことをおこなわないかぎり、その仕事は価値あるものではないのだ、貢献していないのだと、人々は考えているのです。