「ソックスの場所」問題再訪

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神は言っている、これを引用する定めだと。

 「ソックスの場所」とはおよそそのようなことである。マラッツィがいうには、多くの(一人暮らしではない)男性にとって、ソックスとはいつもあるべきところにあるものだろうが、女性にとってはそうではない。女性にとって「ソックスの場所」は、適切であると判断される場所に戻しておくものなのである。このふるまいはほとんど意識下で、習慣化された身体の次元でなされている。このような些細な日常生活における身体の動きの差異のなかにひそむのが、労働の「強度(原文は傍点)」の問題である(pp.84-84)。単位時間あたりの生産物の量が増大した場合、「むだ」な時間、生産の流れにおける、死んだ時間の除去によって労働の密度をよく上げることができるならば、その時には労働の強度の上昇があるということができるわけであるが、この労働の強度は、法権利的にも、尺度で捕捉された量的な労働力にも還元することはできない。だから、この家事労働における差異の問題は「家事労働に賃金を」という(ひとまず政治的に)量的な平面で表現される要求と、それに対抗して真に自律的で、分割不可能な単位として家族をあらしめるためには―――男性と女性のあいだでの家事活動には、完全な相互性があるべきで、この「対人サーヴィス」を商品化の論理にゆだねてはならない―――、男性と女性のあいだの、そして女性のあいだの平等を再確立するためには、「家事労働に賃金を」どころかむしろ商品化された再生産労働の領域を縮小しなければならないとするゴルツらの批判の間でかわされる議論をすりぬけるものなのである。
 強度は労働については、量ではなくそれでは測定できない質の問題にかかわっている。一見したところ男女のあいだに相互性があるような場所においても、「ソックスの場所」のようにほとんど反射的にいとなまれているような諸々の日常的なふるまいのなかに、果てしなく長期にわたって行使されてきた権力関係が刻印してきた非対称性、性別役割分業の「生きられた歴史」が凝縮され沈殿されている。だから、男性と女性の関係において、対等な者同士の交換に擬制することで男性の権力を除去しようとしても、常に剰余が生じ、「生きられた歴史」による主体性の差異がしのびこんでしまうのである(p.88)。この「生きられた歴史」が家族における男性と女性の交換に労働力を時間という尺度で測定することを困難にし、強度という質的側面を考慮に入れることを求める。両性間の平等が法権利において保障されていても、あるいはたとえ労働時間において平等であっても、「ソックスの場所」の問題は、家事労働の場面において尺度の不在による男性と女性のヒエラルキーの再生産の存在を示している。

――酒井隆史『「ソックスの場所」について』「現代思想」第35-8 p43
(内部引用はクリスチャン・マラッツィ『ソックスの場所 経済の言語論的展開とその帰結』「邦題:現代経済の大転換 コミュニケーションが仕事になるとき」ページ番号は仏訳版より)