チームメイキングだけが監督の仕事なのか。 ー責任と権限と報酬の転倒

 

チームメイキングの視点で捉える分には文句ないんだけど、管理職論みたいな文脈ならちょっと飲めないんだよね。

選手の自発性、主体性を引き出すことに焦点化された記事になってるわけだけど、自発性のある選手で構成されたチームが勝ったんであれば勝利はチームのものであって監督のものではないでしょう。言い換えればチームメイキングまでには責任を負っているけど勝利に責任を負っている書き方にはなってないわけで、それでもなお、(勿論東洋経済だからなんだけど)この監督がしゃしゃり出てくるのは何故なのか

競技の面には専門性の上でタッチする能力がないことを認めた上で、監督というポジションの権力を最大限行使して政治を行い、選手達に最高の状況・環境を用意することに尽力したとかいうなら話は別だけど。。

プランA、Bのどちらにするかの決断とその責任を負わないのであれば管理職なんていらんでしょ。
というかそもそも管理職論とか労働と繋げるのであれば報酬や賃金抜きには語れないわけで。そういう意味で競技スポーツと経営論の安易な接続はホントどうかと思うし、百歩譲って接続できたとしても責任と権限と報酬のバランスのおかしさという日本的雇用の問題系を思いっきり引きずった議論でよろしくないですね。

特に文中の怪我をめぐるやりとりは采配の問題を選手のやる気の問題にすり替えるロジックが見え隠れしていてどうかと思います。

「監督、肘が痛いです。」
「医者には行った?」
「はい」
「医者はなんて?」
「〇〇で治るのに1ヶ月かかるそうです」
「あ、そう。トレーニングはどこまでokだって?」
「筋トレと心肺機能のトレとかは大丈夫だそうで」

A「じゃあ治り具合次第だけど次のメンバー入り前提で考えるからコンディション落とさないでよ、メニューはトレーナーとよく相談してな」
B「今回は怪我治すのに専念して、トレーナーとよく相談して復帰計画たてようか」

とかが普通に考えて、あるべきコミュニケーションだと思いますけどね。いつまでに治すの?ってなんだよ。