ホワイトカラー労働、事務的労働におけるOA化、IT化のインパクトについてのメモ

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個人用メモ

学術文献の世界でもOA化はまるまる一章割いて論じられることは少なくないけど、字面だけ読むと味気なかったりする。実際はこういう生々しい経験がなくなっていった過程なわけだけど。

 

小池和男なんかはホワイトカラーの熟練をキャリア展開の仕方から捉えようとしてきて、その見方はスタンダードなものとして受容されているけど、実際はこういう具体的職種・経験に基づいた熟練の捉え方があってもよかったんじゃないのとは思わなくもない。

 

OA化とその進展としてのIT化はホワイトカラーを「脱熟練」し「多能工化」したのは間違いないが、これまでの労働過程論をふまえるなら、物理的事務的作業を一人でこなせるようになってしまった現在の、「脱熟練化」後の熟練のありようってどうなってるのかとか、今一度考えなくちゃいけねーんじゃねーのという気がする。

 

興味深いのはcompany citizenship論やメンバーシップ型雇用論が想定する日本の労働って、90年代末からの成果主義・多面的評価制度導入以前から(同時にIT化が本格化した時期でもある)の問題として個人が企業に対して全人格的コミットメントを要求されることを指摘してきてるわけだけど、ホワイトカラーの場合キャリアラダーの上昇や、社会的水準での男性の承認問題として、イデオロギー的に統制されてることを前提すると、脱熟練化した現在というのはホワイトカラーにとって「命がけの飛躍」が非常に増えた、厳しい時代といえるのかもしれない。職種、職能的な熟練を発揮できないのであれば残ってるのは「やる気」とか「自発性」のみみたいな。

 

「やる気」「自発性」問題は非常に日本的文脈のものとして語られる傾向があったけど、それは戦後の経済発展と手を取り合った説明のなされ方でもあったわけで、ここ数年にわかにcompany citizenship論、メンバーシップ型雇用論が盛り上がり始めてるのは「強制された自発性」論をどう乗り越えるものなのか、時代の要請を受けた盛り上がりなのか、ちょっと注目しておきたい。まあ後は、渋谷望とか、あのあたりの社会思想と労働の議論やポストフォーディズム論、ニューエコノミー論なんかとの兼ね合いでホワイトカラー労働の意味的変容をどう捉えるかもすっごく大事。

 

ただこれに「正規非正規」問題とか「日経連、三つの人材像」とか、職場のジェンダーセグリゲーションとか考え合わせるとちょっと一筋縄ではいかないのが難しいところ。